翻刻
【右丁】
の地にて所領を加られ《割書:一万五千石|を領す》ことし江戸の町奉行職を
承る関東総【摠】奉行をかねつかさとる同き十一年正月の末
忠成内藤修理亮清成二人共に両御所の御勘当をかう
ふつて十八年二月廿日六十三歳にて卒す《割書:二人か罪蒙りし事|内藤か伝に詳也》
嫡男伯耆守忠俊十四歳の時より竹千代殿につかへ参らせ
《割書:忠俊童名は藤蔵台徳院殿に|めしつかわれて藤五郎と改む》天正十八年小田原を攻られしに高名
して御感にあつかる《割書:御感状を|賜しと云》慶長十五年十一月十七日叙爵す
《割書:此事不審也慶長十年四月廿六日 台徳院殿 将軍 宣旨拝賀の記供奉|の諸大夫の列に 伯耆守忠俊と注すされは十月のころは叙爵せし事分明也》
また慶長の末 御書院番の頭となされ大坂合戦の時
水野隼人正忠清か手と戦ひにさきをあらそひ手の人々も
【左丁】
多く討死しわか郎等のうち死も十八騎とそ聞へしされは
両御所の御感に預て其賞これかろからす《割書:加恩の程|をしらす》今年元和元年
九月両御所の仰にて酒井 雅楽頭忠世土井大炊頭利勝と
共に三人同く竹千代殿を(の)【左側に「◦」】御傅になされ《割書:忠俊譜代の人々多 ̄キ中に|保傅の重職に任せられし》
《割書:をふかく感しおもひしかはわか君のめてたくおひたゝせたまふやうにと思ひ|はかりてあるときは色をやはらかにして おしへみちひき奉る事もあり》
《割書:あるときは顔を犯していさめあらそひたてまつる事も度々に及ひしかは|わか君おさなくわたらせたまひし御時よりをそれはゝからせたまひし程に》
《割書:をのつから御行も正しくおはせませしに|よつて将軍家もふかく悦ひ思しめされしと云》元和五年岩槻の城を給り
《割書:五万石○一説に|元和六年と云》同八年四月将軍家日光山に詣させ給し時《割書:大神君|七年の》
《割書:御忌|なり》かれか城に至らせ給ひ御気色ことによろしく 物おほく
賜りぬいかなる事にや寛永二年たちまちに罪かうふつて