翻刻
【右丁】
沙汰す明れは廿年所領の地加らる《割書:三千|石》万治三年七月九日
致仕入道して幽山と号し同き四年二月廿七日七十七歳
にして卒す是よりさき慶安二年五月廿六日正重か嫡男
清兵衛政次か 不才なる由を申て籠居せしめ嫡孫内記政清
をよつきとす政清祖父か家ゆつられて《割書:一万千|五百石》舎弟等に
所領わかつ《割書:二男源蔵正春千石|三男伊織政明五百石》寛文元年十二月政清叙爵し
筑後守になる其子筑後守政蔽父につきて延宝四年
十二月廿六日に叙爵す
【左丁】
森川
出羽守源重俊は金右ヱ門尉氏俊か子也初て徳川殿に仕参らす
此時永禄七年氏俊御家人の中無双の勇士廿人をすぐり
足軽大将を定らる 金右ヱ門 其一人に撰出され馬武者
十騎歩兵五十人を属られたり《割書:これを御先手 鉄炮頭二十人|衆と いひし なり》
重俊《割書:二男と|いへり》大相国につかへ奉り双なき昵近のものにて
終に執政の職に任し西城へうつらせ玉ひしにもしたかひ
まいらせ御書院の番頭をかぬ 寛永九年正月廿四日
大相国家かくれさせ給ひし夜宿所にかえ帰り一門の人々
呼あつめ夜一よいとまこひしてあかつきにいたり腹切て
【同 頭部欄外】
或説に氏俊か
祖は宇田【多とあるところ】源氏
佐々木六角泰綱か
其孫堀部彦三右衛門
尉宗綱より出そのゝ
ち尾張国比良郷に
あり堀部三四郎
宗氏といひ織田
信秀に属《割書:ス》宗
氏か子兄は森川助
右衛門定兼弟堀
場与四郎氏兼と
与【ママ】す織田家へ属ス
永禄四年死ス
氏俊か子氏兼
徳川殿仰によつ
て森川と名のる
といふ按するに
氏俊か伯父定
兼も森川と名
のる氏俊又森川
と名のる事いか
さま其故ある
へけれともいまた
詳ならす当時
森川と称せし
ものは今川宗
徒の家人也