翻刻
【右丁】
常陸国土浦の城を賜ふ《割書:二万|石》同き六年正月十四日
三十七歳にして卒す嫡子丹後守忠照父に つき
慶安二年二月十一日駿河国田中の城にうつり《割書:二万五|千石》
承応三年十月廿六日卒す四十歳 其子隠岐守
忠成つく《割書:二万石○忠照か舎弟主水忠知に五千石をわかつ延宝|三年忠知卒して子なけれはその所領を忠成に返し》
《割書:たまひ爰におゐて又|二万五千石を領す》同き七年九月六日信濃国小諸の城
にうつる《割書:本領の|まゝ也》
【左丁】
三浦
志摩守平正次は三浦介義明か孫駿河守義村か嫡男駿河
式部太夫家村か末孫五左衛門正重か男《割書:家の系図にのする所は|五左衛門正重は式部大夫家村》
《割書:十代の孫也と云々東鑑を按するに 宝治元年三浦若狭前司泰村か|うたれし時民部太夫家村はおちうせて死生をしらすと云々宝治元年》
《割書:に正重か時に至るまて凡三百五十年におよへり世次はわつかに十代|といふ事おほつかなし 家のつたふる所うたかふへきにあらねとも》
《割書:中間にもれたる人ある歟 徳川殿の 外様侍と云々|一説に三河の国仮屋の地下人なりと云々》母は土井大炊助
利勝か妹也《割書:此時利勝いまた|大炊介と申す》正次十三歳の時より徳川殿に
めされ慶長十七年十二月廿八日名あらためて土井
甚太郎と申 《割書:初は亀千代名字改しは|大御所の仰によつて也》そのゝち大相国家の
仰によつて父か名字になつて三浦と名のり叙爵