翻刻
【右丁】
二万余をひきゐて小山の城の後まきす御方のひと〳〵
左衛門尉かいひしことく武田又うち出たりとて引返さんと
する所に 城中よりも切ていつ 忠次 士卒を下知し
とつて返しみつから真さきにすゝみ左衛門尉 我也と
名乗かけ〳〵敵のせいを打破る武田か方にも高坂
弾正忠四郎をつよく いさめけれは 戦ふにはおよはす
同き四年二月七日上杉の管領輝虎より 忠次に書をそ
給はりける是徳川殿と相謀て 武田亡さんとの事也
けり《割書:夏目か記を考るに元亀三年の秋徳川殿より遠江の国|秋葉山の先達加納房といふ 山伏に熊谷小次郎をそへて》
《割書:御使とし樽肴にからのかしら十ならひに浜松の城の本図を謙信|のもとに送り つかはさる この木【本の誤ヵ】図ちかきころまて 上杉の家にあり》
【左丁】
《割書:はや川伯雲植村出羽守か もとよりも河田直江に書を贈れりとしるす|しかれは今年初て謙信とよしみむすはれし にあらす》同六年
武田北条黄瀬川に対陣せし時其陣に乗して 駿河の国
に入給はんと議せられし に忠次申旨ありて御いくさを
とゝめらる同八年九月 駿河の国田中の城を攻め十月高天神
城落しとき首四十一切て献る同き十年武田亡ひしとき
先陣うつて甲斐に入織田殿 駿河遠江三河を経て本国に
帰りたまふへしと聞へしかは徳川殿まつ忠次返して御
まうけの事仰つけられ四月十二日織田殿浜松にいたり
忠次にむかひ此度武田をうちし事是しかしなから徳川殿
武功による所なりと 宣ひて夜 いたくふくる迄忠次と