翻刻
【右丁】
みたれて人民こと〳〵く亡ひうせん事 尤不便の至りなり
されはつみなふしてうしなはれん者共のために家康一人か
かわつて死せんことなんほうゆゝしき事ならすやかた〳〵も
此旨を存知してよしなきつみつくりせん事思ふへからすと
仰けれは忠次かしこまり取てさほとに思し召きはめられんに
なに事かさらに申へきさらは御上洛あるへしとそ申ける
関白殿御上洛あるへしと聞たまひ御家人等か心をやすんせんか
ためなりとて大庁を岡崎に下したまへは忠次徳川殿の御供
して上洛す御見参事終て頓て帰らせ給ひけり《割書:大久保か物語に|つまひらか也》
《割書:徳川殿天下をしろしめさるへき御徳義此時の御言葉に見へけりとふるき|人々申せし也又諸記に大庁の下りたまひし故に御上洛ありといふ》
【左丁】
あやまれり のほらせたまふへしと聞へし かは大庁の下りたまひしと
なり其後秀吉忠次にやしきを給ふ是を 桜井やしきといふ又江州にて
《割書:千石の地|給ひしと云》明れは天正十五年正月信濃の真田小笠原か関白殿へ
参けるに忠次相具して大坂におもむきしよし 十一月十五日
徳川殿忠次か家に入らせたまひ終日の饗宴を催したり
忠次男子五人有嫡子小五郎家次二男本多縫殿助康俊
《割書:本多の家|をつく歟》三男小笠原左衛門佐信云《割書:小笠原掃部助|信嶺か養子》四男松平
甚三郎久恒《割書:福釜家督|つきぬ》五男因幡守忠知女子二人姒は松平
外記伊昌か妻なりはしめ今川殿に質として参らせしと也
妹は牧野右馬允康成か妻なり忠次よはひかたふきて嫡男に
家ゆつり入道して一智と号し年つもりて七十二才慶長