翻刻
【右丁】
わかつ年四十四歳にて 万治三年六月九日に 卒すその子
左衛門尉忠治つく
大学頭源忠朝は宮内大輔忠勝か二男父か遺領わかち賜ふ
《割書:二万石○|新墾【懇は誤】田歟》延宝三年卒しけれは子息石見守忠宗家をつく
備中守源忠解は 宮内大輔忠勝か 三男父か遺領をわかち賜ふ
《割書:一万石○|新墾【懇は誤】田か》寛文八年十一月廿八日廿六歳にて卒し家絶ぬ」
【左丁】
本多
中務少輔藤原忠勝は九条右大臣師輔公十二代の孫藤原助秀
後胤也助秀はしめて豊後国に下り本多と云所に住しかば
本多とは名乗りてける助秀か男右馬允助定将軍為氏卿
に随ひまいらせ尾張国横根粟飯原等の地頭になされ《割書:助定|の時》
《割書:志村何某をうつて参らせしによつて御教書を|なされて其功を賞せられしといふ》助定より四代助時か時
に至りて三河国に来て源蔵人殿に仕ふ《割書:長親朝臣|の時の事》助時子助豊
助豊子忠豊《割書:はしめ平八郎|後に吉左衛門》忠豊か嫡男平八郎忠高二男肥後守
忠真といふ忠豊贈大納言家につかへ奉 《割書:廣忠卿の|御事》 天文十四年
安祥の戦に先かけしてうち死す同き十八年 二月また