翻刻
【右丁】
安祥の城を攻られしか平八郎忠高城下に戦ひ敵の矢に
中て死す肥後守忠真も 永禄四年石ヶ瀬の戦に高名し
《割書:一番鎗を|あけし也》元亀三年十二月三方ヶ原戦にうち死す父子兄弟
同しく君の為に命をおとす中務少輔忠勝此平八郎忠高か
子にて是も始は平八郎とそ申しける永禄七年夏五月
徳川殿吉田の城を攻らる忠勝生年十七にてさきかけし初て
高名をあらはす《割書:忠勝一番に牧野宗二郎と鎗をあはすといひ又は|鵜殿石見守と鎗をあはせしとも いふ此日蜂屋半之丞》
《割書:手負て死したり是は忠勝に先をかけられてけふの軍に鎗とつての|高名 その 詮なし とて 太刀うち せしかゆへなり》
同き十二年三月五日懸川の合戦にさきかけす元亀元年
の夏織田殿備前守長政と《割書:大猷院殿の御外祖|浅井殿の御事也》軍起す越前の
【左丁】
守護朝倉左衛門督義景長政に加勢す信長また徳川殿の御加勢
をこひ申され三千余騎を引率し《割書:一説に|五千》近江国に至給ふ
軍すてに明日に極りぬ徳川殿つよからん方にむかはるへし
とて明れは二月廿八日 姉川を経て 義景にむかはれたり
信長浅井と戦まけ軍し給ふと見へし所に忠勝先陣
にすゝみ士卒を下知してまつさきかく御勢さきをあらそひ
ける三万余騎の《割書:一説に|一万五千》中へかけ入て竪さま横さまきつて
わくる義景終にうちまけて散々になつておちゆけは浅井
の軍も敗れてけり《割書:按するに此軍の事は甲陽軍鑑信長記|家忠日記等にしるす異説おほし》同
三年六月武田大膳太夫入道信玄参河遠江をうちしたかへんと
【右丁 頭部欄外】
一説に永禄
三年二月
徳川殿大高の
城を守給ひし
時に御佐し
同五年今川か
士大将小原肥
前守三河国
長沢に入し時
忠勝十五才
にして敵の
首を取と
いふ又同六年
牛久保にて
駿河の城所
助之丞と鎗
を合せ此年
【左丁 頭部欄外】
牧【「野」脱ヵ】宗二郎と
吉田乙塚にて
鎗を合せ
同七年
土呂一揆の
時柵をこへ
て鎗を合
せしと云