伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(四・上) - 翻刻

藩翰譜(四・上) - ページ 22

ページ: 22

翻刻

【右丁】 火をかけて浜松にこそ帰りけれ《割書:忠勝かふるまひかたきみかたの目を|おとろかすかたきのかたより見付の坂に》 《割書:杭をたてゝ 家康に過たるものか二ツありからのかしらに本多平八とぞ|かきつけける 此歌は 信玄の近習 小杉右近助かよみし也 此ほとは戦国の最中|なれは外国のものは世にめつらしかりしに三河武者十人に七八人かふとの上に|釐【犛の誤ヵ】縷を繋しを見てかくは読しなりからのかしらは釐【犛の誤ヵ】縷の事をいひしなり》 天正元年の秋長篠城を攻らる忠勝又あひはかつて遠攻にす かたきこらえすして降ぬ同三年五月長篠の合戦に忠勝 軍奉行を承《割書:ル》《割書:創業記拾遺にいつ頃の|記か見るになし》ことし六月高明の城を 降し八月小山城を攻《割書:同六年三月駿河国に向給ひし時忠勝仰をうけて|駿府に入敵持舟の城より出てさへきらんとするを打やふる》 同八年六月高天神の城に向ひ給ふ忠勝まつ先にすゝみ外城を うちやふれは則城をかこまれて明れば九年三月終にせめ おとすをちゆくかたきと戦て首を切事二十二同十年三月 【左丁】 徳川殿三位中将平信忠に《割書:信長の|嫡男》武田四郎をうたるへしと駿河の 国をうちしたかへ甲斐の国に攻入給ひし時忠勝先陣を承る 去ほとに徳川殿今度武田か滅し事をも賀しみつから又 駿河の国をわかちし悦をも申さめとて五月九日浜松を御立 ありて織田殿へ参り給ふ信長大に悦ひ給ひ道作して橋かけ させ諸大名に任せて尾張国より近江の安土に至るまて 宿々に仮屋をうつて御座をかまへ饗応の具皆金銀を 敷たりましてや織田殿に参らせ給ひし時もてなし給ふ有様 心も言葉も及はれす信長宣ひけるは年来国をあらそふたる 武田滅て 侍る事信長か名誉にあらす 全く徳川殿の武功 【右丁 頭部欄外】 此年十二月三方か 原の戦に敵を 敗る敗軍の 兵を集て浜 松の城に帰る といふ 信州村上の子孫 の家に忠勝村上 源吾国清に 贈りし状あり 其詞に曰 累年輝虎 家康に被仰合 に付て此間 権現堂を 以可と仰遣之旨 祝着之旨は報に 不及其所えも直札 を以申入たし 由をのせたり 此事思ふに天正 の初年にあるへし 其状には二月四日 とみへたり此時 国清は越後の 国に属せしか故也