翻刻
【右丁】
忠英を嗣とす忠英叙爵して肥前守に任す《割書:のちに|肥後守》
出雲守藤原忠朝は中務少輔忠勝か二男生年十九才にて
父と同しく関ヶ原合戦に島津の合戦にむかひ首二ッきる
徳川殿御感斜ならす明れは慶長六年春忠勝桑名の
城を賜て父か領せし大多喜を忠朝に賜ふ《割書:五万|石》是其年の
勧賞とそ 聞えたれ大坂の兵起りて将軍家の先陣を
承て馳向ひ再ひ軍起りしにそ 大将軍家の先陣を
承る手の軍兵をはよく下知して戦はせ我身はひとり百里
といふ馬に打乗歩武者二十余人を引具し敵の陣をかけ破り
かけやふりおもふさまに戦ひ年三十四にて討死す《割書:忠朝かかく|打死せし》
【左丁】
《割書:事は去年大坂の城をせめられしに忠朝か仰を承てむかひし所川前に|流れて水ふかく城をせむるに便よろしからす忠朝此よしを申す|大御所御気色そんして汝か父の軍せし事山をも川をもきらはさり|きと仰あり忠朝口をしき事に思ひ打死せんと思ひさたむほとなく|東西御和睦ありけれはやすからぬ事におもひたり明年の夏再ひ|兵起りしかは此度こそ本意をはとくへけれとおもひてかくそ存し|討死せしとなり忠朝か郎等主の死骸をかきて大御所の御馬の|まへをすくるを御覧して御なみたをながされしといふなり》
其子二人娘は甥の甲斐守政朝か妻なり男子は侍従政勝《割書:内|記》
なり政勝父か討死の時幼かりしかは甲斐守政朝又家を嗣て
政勝は政朝か許にひとゝなれり寛永八年父か遺領を政朝か
許よりゆつられ同十五年の冬政朝か卒する時又政朝か
所領をゆつらる明れは十六年十二月大和国郡山の城に
うつり《割書:十五|万石》みつからの所領をは嫡子八郎兵衛勝行に賜る《割書:四万|石》