翻刻
【右丁】
戦ひ多くの御方を助追来る敵の首切て返す天正元年七月
奥平父子か武田四郎を背し時に康孝によりて御方に参るべき
由申けれは 廣孝父子松平主殿頭伊忠をくはへられ同き八月廣孝
父子奥平か加勢して武田か勢と 戦ひ首あまた切てけり長篠
の合戦に父子鳶の巣を攻をとし《割書:康重疵蒙る事二所その中鳥銃|左の股にあたれり其痕老死の日》
《割書:迄のこ|れり》同五年冬廣孝家の事を以て子息康重に譲る同九年の
春高天神城落し時 康重か手に討取所の首廿一武田亡ひし
年の秋廣孝康重大久保七郎右衛門忠世と共に甲斐の国をうち
たいらく明れは天正十一年廣孝叙爵して右兵衛佐に任ず
《割書:廣孝叙爵して右兵衛佐になされしか徳川殿仰によりて|元の如く豊後守に任し其後越前守になされしと云》長湫の戦に廣孝
【左丁】
もとより尾幡の地をたまはり《割書:古城を|守る也》康重榊原大久保の人々と先陣
を承り秀次の多勢を打破りにけ行敵を追つめて岩崎に入堀左ヱ門督
秀政か陣とつて待かけたりしこゝに行迎て味方足立直さんとする所
を秀政か三千騎一度にとつと時を作り鋒を揃て切て懸る御方
なとかはころふへきしとろに成て引返すを敵の多勢力を得て
一手になつて追かくる御方すてに軍しつと見えたるに康重
一勢取て返し大勢の中にわつて入竪さま横さま切て廻《割書:ル》康重
左刀の目釘うち折て其敵とくんて首をかく究竟の郎従三十
六人戦ひ死し其身も又七ヶ所迄そ手を負たるかゝりし
程に徳川殿御陣寄られ森池田すてに討れ敵こと〳〵く破れし