翻刻
【右丁】
かは康重危命をたすかりたりかくて蟹江の城を攻られしに康重
疵いまた愈され共馳向ひさきをかく此年天正十三年十一月石川
伯耆守岡崎の城を出て京に参り康重二男二郎紀貞を人質と
なして献る汝か家累代の忠節質も及ふへからすと仰ありて
紀貞をそ返されたり其後東西御和睦事出来後同き十五年
関白殿薩摩の島津を討んとて 築紫より下向ありし時
豊後守廣孝を使として 軍の様を問せ給ふ折節秀吉は
豊前国岩石の城をせめて居給ひしか参りあひ廣孝高名
しける程に関白の御感浅からす物多く賜て帰されたり《割書:金作の|脇刀》
《割書:羊の皮にて作|りし道具》同十八年北条の亡ひし時康重先陣して城をせむ
【左丁】
《割書:遊軍の|大将也》今年関東へ移給ひしに上野国白井の城を賜ふ《割書:二万|石》
慶長元年十二月廿七日廣孝七十歳にして卒す同き四年康重
叙爵して豊後守に任す関ヶ原合戦には中納言殿の供奉しけれは
軍をせす明れは慶長六年二月岡崎の城を賜りぬ《割書:五万|石》十六年二月廿一日
五十歳にて岡崎の城に卒しけり嫡男伊勢守康紀父につきて豊後守に
任す童名は彦次郎御諱字賜て康紀とそ申けり大坂の兵起りし時
天王寺の御陣の先陣を承るふたゝひ軍起りし時先懸して城中に
乗入首二百十一を切て 献る天和九年九月廿五日四十五歳にして卒《割書:ス》
其子伊勢守忠利将軍家の御諱字を賜る大坂の兵起りし時は
御あとにとゝめらるふたゝひ兵起りし時御供してみつから首取て