翻刻
【右丁】
《割書:重次大に怒てかほと大事の腫物かろ〳〵敷思し召あるとつて事|急なるにのそめばこそ彼医も術つきぬれそれに又良医して治し》
《割書:参らせんとするをももちゐ給はてうせ給はん事御心からとはいひながら|あつたらしき命かな諸医術つきぬと申《割書:ス》上はかれらいかてか治し参ら》
《割書:すへき老たる重次か御あとにさがつての御ともかなふべからすさらは御先|仕らんとて御まへをまかりたつ徳川殿大きにおとろかせ給ひあれ》
《割書:とゝめよと仰ければちかくさふらふ人々引とゝめ仰らるへき旨あり候と|いふ重次大きに声をいからかして最期のいとまかふてまかり申すものを》
《割書:見くるしい殿原のとゝめやうやとのゝしつて出んとすされは候その人を|とゝめよとの御使か えこそとゝめぬと申ことはおとなしくも候はぬ本多殿といかれて》
《割書:くちにさも候とて御前に参る徳川殿汝はものに 狂ひてかくはおもふか|家康いまた死しもはてす たとへ家康か命終るとも汝らか世にあらんを》
《割書:たのみにこそ死すへけれ又汝ともいかにもして一日も世にのこりて若き|ものとも掟して我家の絶さらんやうをはからんとも思はすしてせんなき》
《割書:死のともせんとする事や何事と仰けれはいや〳〵それは人によつての事候|重次も今少し 年たに若く候はんには仰こそ候はす犬死せん人の御供には》
《割書:詮なし重次若年のむかしよりこゝかしこの軍にしたかふてまなこ ゐ|られゆびをとされあし切れておはぬ手も候はす人のかたわといふ程の》
《割書:かたわ重次か身ひとつにあつまつて世にましわらん事かなふべき|身ならす殿の御なさけふかければこそ当家にてはかく人におそれも》
【左丁】
《割書:うやまはれも仕れ殿のなくならせたまはゝ他人まても候まじまつ御聟の|北条殿我国々をとらんとし給はんにわかき人々も行末久しう仕へんと》
《割書:頼切たる主にたちまちにわかれ気おくれしはか〳〵しき矢の一筋も|射出す事かなふへからず当家ほろぼされん事又くびすをめぐらす》
《割書:へからす重次夫まてながらへてあの年よつたるかたわものは徳川殿の|普代にてなにがしといはれし家人なるかいかにおしき命なれはかく》
《割書:世にはちをさらすらんとうしろゆびさゝれん事 老のはぢ 何事か|これに過ルべき 此ころまでも武田の家の人々か当家にめされてさらぬ》
《割書:人々も手をつかねひざをかゞめしをよにも哀と思ひしか今は此老人めが|身の上になつて候とのみ存ずれは殿におくれ参らせんかなしきはかりにも》
《割書:候わす我身のはてもあさましさにまつ御さきに死する事にて候と|申けることわりせめて至極せりさらは医師の事は汝か心にまかすへし》
《割書:天命すでに至りて家康むなしくならんとも汝もまた家康かこゝろ|に任せいなる恥を見つへく共一日もいきのこつて 後の事よきにはか》
《割書:らふへしと存するやいなやと仰けれは重次か申旨にまかせられんに|重次いかで又仰をはそむき参らすべきと申さらは医師めせとて》
《割書:めさせられ医師やがて参りて御灸治よろしかるへしと申せは重次|もぐさとつてすゆ御灸のいたく覚えさせ候はねはもくさをまし》
《割書:くはふる事多くして後いさゝか痛ませ給ふよし仰けれは御薬をつけて|まいらせて御薬湯をもすゝめ奉りしにそのよのうち御腫物潰て》