翻刻
【右丁】
《割書:忠次には御領の地を加たまひ光忠には奥郡池尻村の地を賜ひ光典戸田|小栗等にはをの〳〵 五十貫文つゝの地を最行はれしといふ》
元亀三年六月近江国姉川の戦に忠次酒井左衛門尉 忠次と陣を
同しくして戦ひ天正元年三月三郎殿の御軍始に随ひ参らせ
足助伏地二ツの城を攻同き三年五月長篠の合戦に酒井左衛門尉
忠次と共に鳶巣の城を攻落し同九年三月高天神の城落し
時首廿一を切て献る同十一年七月姫君北条左京太夫氏直の
許に入らせ給ふ時忠次御輿副として相模国に趣く《割書:此とき|平岩》
《割書:七之助本多源八郎も同しく姫君を送り参らせしといふ○或記に|酒井左衛門尉送り参らすともいふ 酒井本多其名同しけれはいつれか》
《割書:是なる事|をしらず》そのゝち忠次死して康俊つく初め長篠の戦の時
康俊七才にして人質のため尾州岐阜の城に趣く是織田殿の
【左丁】
加勢を乞はせたまふかためなりき十二歳の時忠次に養はれ十四歳
にして元服し御諱字賜りて彦八郎やすと康俊と申す《割書:此時に養父忠次は|縫殿助と申せし也》
二十二歳の時豊臣関白相模の北条をうたるへきにて徳川殿の
人質を望申されしかは康俊をつかはさる此年徳川殿関東に
移らせ給ひしかは康俊下総国北条の地を賜る《割書:五千|石》慶長元年
五月徳川殿任大臣の御時康俊叙爵して縫殿助に任す
同五年奥の上杉を御征伐の時御陣に随ひ上方の軍起ると
聞へて又御陣に随ひて馳上り美濃国につかせ給ひし日御方の
軍勢大垣の兵と笠縫堤に戦ひし時康俊井伊侍従本多
中務少輔と共に馳むかひ駿河の勢を引て帰り御感の仰を