伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(四・上) - 翻刻

藩翰譜(四・上) - ページ 6

ページ: 6

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【右丁】 《割書:事しるしたれは大にあやまるべからすすへて諸説をあはせ按するに|忠次の父さだかならさるに似たり其家の系図には左衛門入道浄賢か子と|見えたり世につたふる所は左衛門入道浄賢か子の将監忠尚か甥といふ其家|の系図をみれは左衛門入道浄賢 天文五年に卒すと也此時年七十七なる|へし入道か卒する時は忠次としわつかに十三歳にやしかれは入道六十五才|の時まふけし子なり おほつかなし大久保か説によれは天文十六年に|廣忠卿にそむき参らせて尾張へ行し左衛門尉といふあり是入道に|あらす又忠次にあらす思ふに此左衛門尉といふは浄賢入道か子にて|将監忠尚か兄弟にてすなはち忠次に父なるへしさあらんには忠次|実は浄賢入道か孫にて将監忠尚かために甥にてあるなり世に伝ふる|所の説にあふへしや其家の系図に忠次を淨賢か子としるせし事は|祖父か家をつかせ給ひしによつてなるへし 其父左衛門尉は 反逆の人》 《割書:なれは系図にはのせ|さりしと見へし》忠次普代重職の家をつき又岡崎贈大 納言家の御妹君にあひ参らせ徳川殿の 御伯母むこなり けれは《割書:忠次か宅ははしめ長沢の松平上野介政忠に嫁し源七郎|康高をまふけらる政忠桶はさまの戦にうたれ給ひしのち》 《割書:忠次に嫁し|たまひし也》当家におゐて肩をならふる人なし家禄六年の 【左丁】 秋より一向専修の門徒等こと〳〵くそむき参らせし時忠次 かむかふ所やふれすと云事なし《割書:戸田三郎右衛門忠次か伝を|あはせかんかふへし》七年六月 今川の侍大将小原肥前守吉田の城にあり忠次先陣を承てせむ 小原防きかねて忠次によつて御一族一人を給て駿河の国に 御とも仕候はんには城をはひらき渡し奉るへきにてと望む さらは松平源三郎殿 駿河へ越給ふへきにそ定りけれは 忠次か娘をも副て小原にわたす小原駿河に帰けれ共 三河の国こと〳〵く徳川殿にしたかひぬ同き月廿二日城 をは忠次にそ賜ける《割書:源三郎殿は 久松の男徳川殿 異父同母の|御弟 此のち武田か 今川をほろぼせし時に》 《割書:をのか国人とりまいらせてゆく|やかて 帰りたまひしなり》此後忠次此ほとりの人々の旗 【同 頭部欄外】 忠次に吉田の 城を賜りて 東の三河の 衆を其手に 付らると云