翻刻
【右丁】
かは康政も心よけに見えしに中務少輔これを聞て直政の
宣ふところ勿論なり されとこゝに忠勝心得ぬ事一ツ
あり康政いひひらき玉ひなんやといふ康政わらつて
何事にもあれ承らんといふ忠勝主殿か大殿をたにか程に
諫申せし身の佐渡守正信の後にのみしたかひしこそ心得ね
我等三人か事は徳川殿にさる者ありと天下の人にもゆるされぬ
弓矢とつてのみかは康政の謀申さん事大かたはさみし申《割書:ス》
人あるましゐ【ママ 「い」とあるところ】ものなと主殿先陣して一日の内に真田か城
攻やふつてこそ御供申ては上らぬそもしさもあらんには
たとへ海道の合戦にあわせ給はすとも大殿の御気色
【左丁】
か程迄はあらしさらは又主殿か身を捨て いさめあらそふにも
及ふましと思ふはいかにといへば 康政答ふるに詞なくて三人
一同に打わらひ数盃の興をそ添にけり康政と忠勝とは
同年にて同地にひとゝなりしかはいとけなきより たかひに
したしかりし故常にはかるゝ事をもいひあらそひけるとなり
同き十一年四月康政館林の城にて病にふす将軍家大に
おとろかせ給ひ酒井雅楽頭忠世《割書:康政か|むこ也》土井大炊頭利勝を
めし汝等すみやかに医師を給てゆき心の及ばんかぎり
よきに治療をくはへよとそ仰下され又日々に御使あつて
とはせ給ひしかと終に五月十四日五十九歳にて卒しぬれは