翻刻
【右丁】
仰下さる慶長二年六月廿三日とし六十七才にて下田の地にて
卒しける土佐守尊次年二十一才 天正十二年 小牧御陣の時
父忠次と共に 大野の城に有 軍終てのち其抽賞として
三河国和地村を下し給ふ《割書:五百|石》小田原の軍に 父子共に向ひ
関ヶ原の合戦に御所の後陣をうけたまはる此年越前
の国丸岡の城を取て守る事 明る慶長六年の三月に
至り此月累代の本領田原の城を賜《割書:一万|石》同十二年叙爵《割書:ス》
大坂の軍起りし時はしめ岡崎の城を守りそのゝち大坂
に駈のほり大御所の御陣に候ひけるふたゝひ兵起りし
には三河の国東郡の人々皆常陸介殿の御手にしたかつて
【左丁】
むかひしかは尊次おなしく彼御手に属す後元和元年
七月京都にして卒す年五十一歳其嫡男因幡守忠能
生年十五歳慶長五年の秋父とともに海道の御供して
関ヶ原に駈むかい大坂両度の 軍には将軍家の御手に
したかひけるとしつもりて六十一歳正保四年正月三日に
卒しける忠能男子なかりしかは舎弟三郎右衛門忠継か嫡
男をもつて嗣とす伊賀守忠昌伯父忠能か嗣となつて
寛文四年五月廿一日肥後国天草郡富岡の城を給つて
移る《割書:二万|千石》同き十一年正月廿五日寺社奉行を蒙て御奏者
の事を兼ぬ 延宝四年四月三日京都所司代の職に