翻刻
【右丁】
《割書:牧野の城と名つけられし上は|康成にたまひしに疑ふへからす》同き七年九月十八日松平
甚太郎家忠と共に 望宗の城をせむ《割書:望宗又持舟とも作る|創業記には此時に》
《割書:せめおとすよしをのすれ|ともあやまれるにや》八年五月徳川殿田中の城のほとり
にて麦からせて備給ふに望宗の城より敵出て御後を
襲はんとす 康成等 取てかへしてうちやふりぬ十年の
春織田三位の中将殿 甲斐国へ責入給ひし時 三月三日
康成仰を蒙て牧野の城を出駿河国に至り興国寺の城を
守り《割書:系図にてみれは興国寺を守りしは天正四年の|事にて勝頼をふせかんためと云おほつかなし》同き七月久野三郎左衛門
宗能と共に 伊豆の国柾戸の要害を守る 十一年十月
駿河国牛窪の城を賜て移る《割書:系図によれは|十年の事なり》十六年四月
【左丁】
従五位下に叙し右馬允に任す 十八年の夏小田原を責
られしに徳川殿にしたかひ《割書:遊軍の|大将也》ことし上野国大胡の城を
賜ふ《割書:二万|石》慶長五年の秋東西一時に軍起りしに康成子息
新次郎忠成父子中納言殿にしたかつて山道をのぼる八月七日
真田安房守昌幸兵上田の城より切ッて出味方の兵さん〳〵に
うちなさる新次郎忠成生年十八才手勢引具し真先に
すゝみ追くる敵をうちやぶりつゞくみかたの軍勢とおなしく
城にをつつめて既に 城をやふらんとす かゝる所に御使
はせ来て御下知なからんに 城をせめん条甚以奇怪也と
制しとゝむる事度々にをよひしかはをちんず城を落し