翻刻
【右丁】
城を守る摂津国曽根の一揆起りしと聞へしかは兵ともさしむけ
首三十余切ッて亀山の城下にかく元和五年和泉国岸和田の城に
移り寛永三年九月従四位下にのほせられ同十七年六月廿七日
七十三歳にて卒《割書:これよりさき十一年七月廿二日所領の御判を賜るこれは開発|の田を引むすひて六万石の御判を望みしかゆへなり》
嫡子左近大夫康政父にさきたちて寛永七年十月十七日卒し
けれは二男康映父につき播磨国宍粟の郡にうつる廿年十二月
廿八日叙爵し周防守に任す《割書:これより先に叙爵せし|なるへしその官名いまた聞ず》慶安二年八月十二日
石見国浜田の城を給ひ延宝二年十二月晦日に六十歳にて卒し
二男主計頭康長家をつぎ周防守に任し舎弟主税某へ
所領わかつ《割書:新墾田|弐千石》
【左丁】
三宅
惣右衛門尉藤原の康貞は備前国児島三郎三宅高徳か後胤也
はしめ高徳南帝の御方としてつゐに所領を失ひて伊勢国に
のかれ其後又三河賀茂郡に来り住む嫡子児島太郎高秀は
備前国の浮田か祖是也二男児島次郎高久三男三宅三郎
高貞初て児島をあらためて三宅を名のりその子孫三河国賀
茂郡伊保篠原の地にわかれ住む《割書:これは其家につたわる所姓氏録を按|するに三宅氏は新羅国王子 大日》
《割書:相命の後也或説に伊久米入彦命を以て 祖とすと見へし 児島三郎高|徳其氏は三宅なれは某子孫ならんには 三宅を以て氏とすへししかるに》
《割書:又武家補任をみるに三宅を以て藤氏とす三宅をもつて|家に称して藤氏也といふ事其謂あるへけれと詳なる事をしらす》高貞か子
三郎兵衛尉元貞か三代の孫加賀守貞宣四人の男子有伊保梅坪