翻刻
【右丁】
広瀬等の地にわかれ住む三男周防守清貞広瀬に有その
子隼人正師行か孫藤左衛門尉政貞か代に至て徳川殿に属し
まいらせ年七十にして天正十五年に死しけり惣右衛門尉康貞
政貞か嫡子母は鳥井伊賀守忠吉か女也御諱字賜て康貞
とはめされける永禄十一年十一月 岡(寄)【左側に「◦」印】騎の任を属せられ度々
の高名数をしらす中にも甲斐の府中黒駒藤木等の合戦
に北条の多勢をうちやふり長篠の合戦には始清洲の城を
守り後に黒田の城を守る相州奥州等の御陣には嫡子康
信と同しく御供し関東にうつりすまひし時に武蔵の国
瓶尻の地を領す《割書:五千石 此時康貞の弟弥次兵衛正次も 武蔵指扇の地|五千石を給ふ正次は慶長二年十二月に伏見におゐて》
【左丁】
《割書:久野民部と|戦ひ死す》関ヶ原の戦ひに 康貞康信父子遠江国横須
賀の城を守り 軍終し後 康貞伊勢国亀山の城をまもる
慶長九年所領の地加賜りて当国加茂郡拳母の郷に移る
《割書:五千石を加賜り本領|を合せて一万石也》元和元年七十六歳にして死す 嫡男
越後守康信父につく 初め天正十八年の春小田原の
御陣に供奉せしより慶長十九年の冬大坂の御陣に至る
まて所々の御陣に供奉せすといふ事なし大坂の兵再ひ起り
しかは淀の城を守る元和五年の秋伊勢国亀山の城に移り
同六年八月所領の地加賜る《割書:二千|石》寛永九年九月亀山の城に
卒す其子大膳亮康盛父につぎ同十三年常陸国新張