翻刻
【右丁】
手に属にける天正十年の冬徳川殿甲斐の新庄に御陣を
めさる清秀主にしたかつてかしこにあり《割書:此時は和泉守殿|の代なり》高木
九助を御使として清秀をめさる清秀召にしたかつて
御陣にまいるやかて御家人にめし加らる《割書:千石を|たまふ》小牧の御陣に
軍奉行の事となり長湫の戦ひに清秀物見を承つて
馳帰徳川殿の御陣をすゝめしかは上方の軍こと〳〵くに
やふれはしる小田原を攻られし節は武者奉行を給りことし
関東にうつらせ給ふて 相模国鰭【蛯の誤ヵ】名の地をたまひ《割書:五千|石》三男
正次に所領を給ふ《割書:千石正次 此時には|善次郎と申す》其のち清秀年老て致仕
しおのれか領に引こもる徳川殿御鷹狩の序にみつから
【左丁】
彼家にいたらせたまひものたまふ事度々に及ふ文禄
のはしめ朝鮮の事おこり 明れは二年三月の頃徳川殿
にも彼国にわたらせ給ふへしなとゝきこへしかは清秀
肥前の御陣にまいりむかふ徳川殿よろこはせ給ふ事なゝめ
ならす太閤又此よしを聞 給ひ徳川殿の御陣に成らせ
たまひし時清秀ならひに戸田三郎右衛門尉忠治を御前に召て
二人か年頃の功名を感し仰らる慶長五年奥の上杉を
うたれし時清秀小山の御陣にまいり又宇津の宮の御陣に
まいり御供の事を望み申す年いたく老たれはゆるし給はす
して帰されたりとし四十五歳にして慶長十五年七月十三日