翻刻
【右帖】
たまひしを毎度軍に利をうしなひ徳川殿と戦ん事
叶ふへからすと思ひ返し終に信雄と中直りす
これひとへに徳川殿にしたしうならんか為なれば
彼御子養ふて徳川殿にも見参せんと謀らる
されは徳川殿かの望みに任せらるへしとも聞えされは
守殿うしなはれたまふへきと風聞す徳川殿此由を
聞し召はしめ秀吉か望によつて我子あたへぬ彼
今は秀吉の子にこそあれ家康か子に非す秀吉の
子殺さんに家康なにと思ふへきと驚かせ給はす
秀康の御母は《割書:お万殿のちに|長勝院と云》深く是を歎き此上は都に
【左帖】
のほりとにも角にも守殿とこそ一処になるらめとて
迷ひ出たまふに村田意竹入道かひ〳〵しく御供して
都にのぼり守殿の御館に入参らす同き十三年の
十二月北畠の使として羽柴下総守勝雅土方勘兵衛
雄久徳川殿に参り殿は関白殿と年頃の御恨あるにも
非す一旦信雄かとのみ参らせしによつて御合戦は
及ひき信雄たに既に関白殿と中直りしつ然るに
信雄か故をもつて両家なかくあた結ひたまはん
事返す〳〵もなけき入りぬあはれ東西御和睦有んには
信雄か幸ひ何事か是に過んやと申さる御許容の