翻刻
【右帖】
名乗従四位下侍従兼下野守より左少将になされ年
四十二才にて申すに延宝二年正月晦日に世をはやうし
たまへは三位中将殿の家つかせらるへき御子なし御甥
なれはとて永見市正か嫡子万徳丸養ふて延宝三年五月
十八日将軍家の見参に入らる同き十一月廿三日元服あつて
御諱字給り綱国と申し四位侍従兼三河守に任す
参議忠昌卿は中納言殿第二の男童名は虎之助慶長
十九年の冬御年十九才にて兄少将殿の手に属し
大坂の城をせめ明る元和元年正月十二日四位侍従に任し
伊予守を兼《割書:此時に将軍家御諱|字たまひしなるへし》ことし夏大坂の合戦にみつから
【左帖】
高名し手の者共に首五十七きらせて献る同二年信濃国
川中島の城を賜ふ《割書:十二|万石》同五年越後国高田城に賜る《割書:二十四|万石》
寛永元年越前国にうつる《割書:五十二万五千石按するに忠直卿の御時は|越前六十七万石と申す此度は大野丸岡》
《割書:等の地のそ|かれしと也》同三年参議正四位の下して正保二年八月朔日四十
九歳にして卒し嫡子万千代丸跡をつき此年十二月晦日
元服し御諱字給り光通と名乗従四位下侍従兼越前守
より左少将に至り延宝二年三月廿四日三十九才にて卒し
家つくへき子なしとて弟也ける兵部太輔昌親をよつき
とす昌親童名辰之助忠昌卿の三男父卒してのち
吉江の地を分領す《割書:二万五|千石》従五位下兵部少輔より従四位下