翻刻
知らす知る人とてもなし万事ニ付憂き事有る漂流人の
眼前にて船中に数拾疋/繋(ツナ)ぎ有し獅子のごときものを
引出し差殺シ喰ふ形状を見て一身戦慄し此船
海賊罪人ならすや後日にハ我々をも如此喰殺すならん
かとおそろしく針の莚に座する心地せしがまた過て思按
するに彼等我漂船の荷物にさゝハらす聊物を取らざりし
様子を思へバ賊船にハ有まじく又此舟に繋きたる物ハ獅子
に非す/豕(ブタ)なり抔と各許してやゝ胸落付少し安心したり
しとの始終亦乗船の始メ二三日が程ハ食事少しづゝならで
ハ喰セす候故空腹のまゝ船子を■【譏カ】りつぶやき空鍋空櫃
を叩きて喰事を乞ひ求めたれ共与へすして後チ四日
目程ゟハ腹一はい存分ニ可喰ニて仕かたにてすゝめ呉たり
と云事また漂客等船中に米有事を捜索て取
出し是を焚て呉よと手真似して乞しに船司横点頭して
米を喰てハ眼を煩ひ足腫れて日本へ帰る事叶はすやはり
肉喰して無事に故郷へ帰るべしと/慇懃(ネンゴロ)に/諭(サト)しくれたり
との話又異国舟の者共漂客之内吉松左蔵ハ年若き故
にや養子にほしがり候得共何分右両人古郷へ帰る心切なれば
其求に応ぜざりしかバ彼レ等兎角おどし歎き両人をアメリカ
の本国へ連れ帰らんとせし様子故両人申合セ謀て元船
を抜け出て便船へ乗移りし話しを初として其外丸二ケ
年の間警衛を凌き護送を得て数千里外の絶域に
至り親敷其実を見また遥々と帰朝せし咄数々御座候得共
至愚の私事ニ候得者耳にハ聞ながら色々混雑して其事情を
詳ニ憶記する事能はす然も文続前後して彼是疎漏な□こと
兼て御案内之通盲筆無識の止事を得ざる処ニ御座候而実ニ
裘を隔て痒きを掻き候如くの事のミ毎々多かるべしと存候
勿論不文なる識にて《見せ消ち:不分なる|》なる目に知らざる所の異説を聞書せし