翻刻
【右丁】
親(をや)への孝(かう)と云(い)ひ家(いへ)を思(おも)ふ大本(たいほん)にて候 武士(ぶし)は生死(せうじ)を忘(わすれ)て
君(きみ)を思(おも)ひ家(いへ)をおもふ皆(みな)信力(しんりき)にて是(これ)亦(また)先立大事(さきだつだいじ)は命(めい)也 扨(さて)女
房(ぼう)子供(こども)を不 便(びん)と思(おも)ひ今日(こんにち)只今(たゞいま)より道心(どうしん)をおこし心(しん)
中(ちう)に誓(ちか)ひを立(たて)色欲(しきよく)を避(さ)け名欲(めうよく)を捨(すて)有道(ゆうどう)の者(もの)に立(たち)
より身(み)の一大事(いちだいじ)を知得(ちとく)し自身(じしん)を明(あき)らめば忽(たちま)ち胸(けう)
中(ちう)ひらけ心(こゝろ)広(ひろ)く体(たい)ゆたかに安楽(あんらく)の場(ば)来(きた)るべし此外(このほか)
療治方(りやうじかた)一切(いっせつ)無之(これなく)色(いろ)を慎(つゝし)み命(いのち)をおもふ身薬(しんやく)に心(こゝろ)を
明(あき)らめ気(き)を養(やしな)ふ心薬(しんやく)此《割書:身|心》二 薬(やく)を以(もつて)療治(りやうじ)せば本(ほん)
快(くわい)いたす事(こと)的然(てきぜん)なり猶(なほ)寿(ことぶき)を保(たも)つべしこの療(りやう)
治(じ)いたつてするどく即効(そくかう)を顕(あら)はせる事(こと)三ヶ月に
【左丁】
いたらずしてしるしあるべし世間(せけん)の人(ひと)悟道(ごとう)といへ
ば我(わ)が禅宗(ぜんしう)ばかりの様(よう)に心得(こゝろへ)るは愚痴(ぐち)凡俗(ぼんぞく)の所存(しよぞん)に
候 悟(さとり)りと申は吾(わ)が心(こゝろ)と云(い)ふ義(ぎ)なり貴賤(きせん)男女(なんによ)をいわず
我(わ)が身(み)の一大事(いちだいじ)にて仏道(ぶつどう)はいふに及(およ)ばず神道(しんとう)儒(じゆ)
道(どう)武道(ぶどう)都(すべ)て諸道(しよどう)何(いづ)れの教(をしへ)も只(たゞ)己(をのれ)を明(あき)らむる所(ところ)
の心法(しんほう)にて一 字(じ)一 句(く)をからず信心(しんじん)を以(もつ)て我(わ)が心体(しんたい)
を発明(はつめい)するを悟(さとり)と申 事(こと)にて是(これ)を了知(りやうち)して気(き)
をやしのふ事(こと)人間(にんげん)の第一義(だいいちぎ)なれば孟子(もうし)も浩然(かうぜん)
の気【注】を養(やしな)ふと云(い)ひ老子(らうし)は彼(かれ)を捨(すて)て此(これ)を取(と)る只(たゞ)
無異(ぶい)無事(ぶじ)と気(き)を養(やしな)ひ足(た)る事(こと)を知りて安楽(あんらく)
【注 孟子の言う「浩然の気を養う」は「公明正大でどこも恥じるところのないたくましい精神を育てる。転じてのびのびとして解放された心持になることをいう。」】