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コレクション: 北原平蔵家資料 (1)

岩窪廟取(所)墓碑囲石垣取建伺書 - 翻刻

岩窪廟取(所)墓碑囲石垣取建伺書 - ページ 3

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翻刻

【右丁】 碑陰乃文之趣ニ而は天正元酉年四月十二日 病死仮葬ニ致し同三亥年四月十二日於 同所火葬分骨同所ニ埋葬致し古墓 石有之を中井清太夫支配之節願之上 安永八亥年只今之新碑建立之砌右 古墓石を新碑之底ニ埋祭いたし候由ニ付 古墓石之分文相糺候処法性院大僧正 機山信玄公大居士神儀天正元癸酉四月十二日 【左丁】相 病死矣右三年之間隠密為諸方 敵国也乙亥四月十二日於此所有御訪 而認高弐尺四寸之墓碑之由申立当時 囲無之牛馬不浄等灌候儀も有之 当国浪人共幷由緒之者共甚相歎候間 右之者共出金同村ニ而世話致シ墓所定間 三間四方石垣取立度旨申立候武田氏之 古跡ニ相違も無之と相見え且雨覆等も

現代語訳

【右丁】 碑陰の文の趣旨によれば、天正元年酉年四月十二日に病死し、仮葬を行い、同三年亥年四月十二日に同所で火葬して分骨し、同所に埋葬して古い墓石があったが、中井清太夫の支配の際に願い出て、安永八年亥年に今の新しい碑を建立した折に、右の古い墓石を新しい碑の底に埋めて祭ったということである。そこで古い墓石の分の文を調査したところ、法性院大僧正機山信玄公大居士神儀天正元年癸酉四月十二日 【左丁】 病死したが、右の三年間は隠密のために諸方面の敵国であったため、乙亥四月十二日にこの所で御訪問があったと認められ、高さ二尺四寸の墓碑があったということを申し立てている。現在は囲いがなく、牛馬による不浄なども起こることがあり、当国の浪人たちや由緒ある者たちが甚だ嘆いているため、これらの者たちが出資し、同村で世話をして、墓所の定間三間四方に石垣を建て立てたいと申し立てている。武田氏の古跡に相違ないと見え、また雨覆いなども