北原平蔵家資料は、伊那市高遠町荊口の北原家に伝わった資料である。 北原家は年寄の家筋であり、荊口村の名主を勤める傍ら、石切を勤めていた。 天保年間(1830~1844)頃から高遠藩領入野谷郷の石切目付を勤め、入野谷郷全体の石切を取り締まり、運上の取り立てや仲間の統制、石切同志の紛争の調停等を行っていた。 入野谷郷の村々から提出された「他国出石切名前書上帳」は、弘化3年(1846)から慶応3年(1867)までの合計105冊に及び、これらを通して高遠石工の出稼ぎの実態を知ることができる。 また、七代目平蔵は、天保10年(1839)に甲州岩窪村(現甲府市岩窪町)にある「武田信玄公廟所」の囲玉垣の建設を命じられ、棟梁として甲州島上条村(現山梨県甲斐市島上条)に滞在している。廟は天保12年(1841)に完成したが、北原平蔵家資料の中には門塀玉垣の立面図や御請証文、人足賃・石工手間賃・月〆職人数が記された書上帳などが見られ、事業の様子を知る上でも貴重な資料といえる。